落語

第7回 bamboo寄席 後書き

〜bamboo寄席 後書き〜

『反対、反対の反対』

マスター記

7月にbamboo寄席に登場した『昔昔亭A太郎』さん。

その新作落語が大変興味深く、面白かったので、その話からその先までを一考。

話は、小さな孫がお爺ちゃんに、世の中の、世界の単純な物、物事の『反対』を可愛く次から次へと尋ねていく流れなのですが、
そのお爺ちゃんの返答が、孫の素朴な質問に応えているとは思えない程、時にシュールで時にリアル、哲学的だったり、禅問答のようであったりで、深く印象に残りました。

孫『お爺ちゃん、白の反対は?』

お爺ちゃん『黒だと思っているだろう?実は違うんじゃ。世の中の多くは白黒のつかない、灰色のものばかりなんだよ、だから、白の反対も黒の反対も灰色じゃよ』

孫『年末の反対は?』

お爺ちゃん『年始だと思っているだろう?年末と年始は大晦日、元日とたった一日違い、反対と言うにはあまりにも近過ぎる、だから年末の反対は六月下旬じゃよ』

孫『始まりの反対は?』

お爺ちゃん『終わりと思っているだろう?違う違う。始まりがあって終わりがある、終わりがあるから始まりがある、これはどちらかというものでなく、ずっと互いに繰り返していくものだ。だから、始まりの反対は始まり、終わりの反対は終わりじゃよ』

なんて感じで楽しく続いていくのです。
素敵な洒落とウィットに目を丸くしたわけですが、その先。

我々は如何に人や社会が作った固定概念に囚われているものかな、と。

白の反対は黒、年末の反対は年始、始まりの反対は終わり、と試験の回答のようなフォーマットが根強く感覚に張り付いているもので、とても一次元的な印象。

本来はお爺ちゃんの返答のように、二次元、三次元的なあらゆる方向、角度の『反対』の可能性がマルチにあるのだろうし、その人其々の生き方、考え方、感性、感情、センスによって、その数だけあっていい、白の反対が赤だって良いのです。

では、何故そうなってしまうのか。
それは『人や社会の都合』ってもの。

とっても社会的な生き物である僕等人間は、
色んな物や事に線を引き、区別し、こうであると決めたがってしまう、その基準は人や社会にとって都合がいいか悪いか。

社会的に受け入れられたい、知って欲しい、伝えたい、共有したいされたい、なんて社会的な人の性と相まって、次々と曖昧な色んなものや概念の固定化が進んでいく。それがある意味、文明や知識を推し進めた一つの原動力でもあるのですが、、

では、
ニュートラルな『ものさし』って何だろう、と言ったら多分『自然』なんでしょう。

『緑が癒される』『火山の噴火が恐ろしい』
『海がとても綺麗』『大型台風がやってくる』というのは只の人の都合、自然にとっては同じレベルで発生する単純な事象でしかない、ごく普通の事で、そこには善悪も固定された概念もない。

無限の色に名前をつけるのも、流れ続ける時間を区切るのも、事象の始まりや終わりを決めるのも、
全ては人や社会の都合。
ならば、その無限の反対もまた無限にあるのかも。。。

まぁ、ウチの猫達は、昼の反対を夜なんて考えた事も無く、只々自然のニュートラルな世界にポンと有りのまま存在してるだけ。だからきっと美しいんだね☆

賛成の反対って『反対』かな?
反対の反対って『賛成』かな?

『多種多様な反対』に溢れた新作落語。
とても楽しませて頂きました〜

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