『シネマに酔狂』バーテンダーが語る映画とお酒 #44「王になろうとした男」
『シネマに酔狂』
バーテンダーが語る映画とお酒 #44『王になろうとした男』
〜映画を彩る名脇役たち〜
Bambooキネマ倶楽部の作品に合わせてご紹介した、
映画とお酒にまつわるコラムです。
第44回作品『王になろうとした男』1975年米国英国
ラドヤード・キップリングの同盟小説を名匠J・ヒューストンが映画化、
ショーン・コネリーとマイケル・ケインが演じる王になる事を夢見た
二人の英印軍退役軍人が、アフガニスタン辺境部の国、
カフィリスタンを冒険するダイナミックかつ奇妙な活劇。
作中では王になる野望を実現するまでは酒と女を絶つという契約が
キーとなる展開の為に、酒の登場の機会は少ない。
冒頭オフィスで飲まれるウィスキー、汽車でのスキットルに入った
12年物らしき酒も銘柄は不明、部族に振舞われる謎の飲み物くらい。。
そこで、今回も私の独断と偏見でお酒を紹介します。
『アレキサンダー』(カクテル)
死を覚悟するほどの様々な苦難を乗り越えて、ドレイボットとカーネハンは
何とかカリフィスタンに入国をする。
首長ウータを丸め込んでイギリス式の軍事訓練を施し、部族を率いて他の部族を支配してゆく。
その際、ドレイボットの胸に矢が命中するが、サム・ブラウン・ベルトに当たり命拾いする。
それを見た部族たちは、ドレイボットが伝説で語られる、かつてカフィリスタンを征服した
神シカンダー(アレキサンダー大王)の息子だと信じ出す。
その後、聖都シカンダルグルの大司祭セリムは「本当の神か確かめる」として
ドレイボットを剣で刺そうとする。その際、抵抗したドレイボットがフリーメイソンの
紋章を所持しているのを見て、セリムは彼をアレキサンダーの息子として認める。
「シカンダー2世」としてカフィリスタン王に即位したドレイボットは人々から崇められ…
アレキサンダー大王の威光と伝説によって見事に王へ即位を果たす。。
そこで、その名を冠すカクテルの「アレキサンダー」をご紹介。
ブランデーの豊かな香りと生クリームとクレーム・ド・カカオの甘さ、
チョコレートケーキを連想させる味わいで、女性に好まれるカクテル。
1901年のエドワード7世の戴冠式の際に献上された、1902年のアレクサンドラ王妃の
戴冠式の際に献上されたという説もあり、王を題材にしたこの映画に相応しい。
しかし、その甘い野望と夢は儚くも崩れてゆくのであり。。。
カクテル「アレキサンダー」で映画の話といえば、
ブレイク・エドワーズ監督の映画『酒とバラの日々』(1963年)が有名。
チョコレートが大好きで全く酒を飲んでいなかった美しい人妻が、
酒呑みの夫から勧められたこのカクテルの口当たりの良さに惑わされ、
重度のアルコール依存症に陥って行く姿が壮絶に描かれている。
ヘンリー・マンシーニの美しいタイトル曲も併せて是非一度ご観賞を!
『ボンベイ・トニック』(カクテル)
1800年に大英帝国がアフガニスタンを保護国とした頃のイギリス領、
インド帝国・ラホールから始まる本作品。
英国統治下インドであるこの時代、ジンが人気を博したことから、都市の名前であるボンベイ
(1995年ムンバイに改称)の名を冠するジンをチョイスしました。
ラベルにはビクトリア女王の肖像、作中では英国、英国人の傲慢と思い上がりが随所に
見られますが、古来の都市名称であるムンバイを英語運用しやすくボンベイと変え、
植民地政策の中で、ジンの材料にもなるスパイスやボタニカルの積極調達など、
ジンのボトル一本の中にこの時代の大英帝国が凝縮し象徴されています。
もう一つ、なぜ今回ジントニックであるかと言いますと、
トニックウォーターは熱帯地方の英国植民地でマラリア防止の為に飲まれるようになったのが始まり。
この当時のレシピにはマラリアの特効薬、キニーネが含まれ独特の苦みがでるため人気がありました。
当時トニックウォーターは医療品ではありましたが、より洗練された飲み物として楽しむ為に
ジンを加えるようになり、ジントニックがこの地より一般化していきます。
そんな時代背景からもボンベイ・トニックがベスト。
トニック・ウォーターは炭酸水に各種の香草類や柑橘類の果皮のエキス、糖分を加えた飲料で、
かつて医療用に用いられていたトニックウォーターには多量のキニーネが使用されていましたが、
現在では微量のキニーネと香料を使用した製品が大半です。
尚、キニーネを原因とするアレルギーなどもあり米国では83ppm以下、日本では規制はないが
コスト上の理由により、日本で流通しているトニックウォーターには一部の輸入品を除き、
キニーネは使用されておらず、香料を代用しているのが実状です。
更にもう一点あります。
本作の原作者であるラドヤード・キップリングが1865年ボンベイ(ムンバイ)生まれである事。
多感な幼少期、青年期を過ごし、イギリス統治下のインドを舞台にした作品、児童文学で知られ、
1907年にノーベル文学賞を41歳の史上最年少で英国人として最初に受賞しています。
最後に彼の言葉を。「東は東、西は西」